備前焼について

 
岡山県備前市に生まれた備前焼は、わが国最古の歴史と原始時代の焼物の技法を、そのまま今日に引き継いでいることを誇りとし、千年の歴史を有する唯一のものであります。
 古くは祭器に用いられ、また日用雑器、茶器、置物としていつの時代にも、その実用性と雅味を多くの人々に愛され、はぐくまれて参りました。
 備前焼の大きな特徴は、登り窯を用い(登り窯横)、釉薬を全く用いないで焼き上げ、土と炎がそのまま一体となって多彩な変化が現われるところにあります。
 よく乾燥された松割木の燃えた灰が、ゴマ粒のように付着したり、それが高温(1200度前後)で溶けて玉だれ状となった胡麻(ゴマ)、焼成の最後に炭を入れ、その炎がえがき出す棧切り(サンギリ)白地又は赤地に赤色又は色調の異なる色線が、たすきをかけた様に交差して現れたものを云い作品に稲ワラを巻きつけ粘土に含まれた鉄分が窯変して出来たものを火襷(ヒダスキ)横に寝させて焼くことにより多彩な窯変画ころがし、焼成時に還元が起こり金彩色に発色した炎(ほむら)、炎が通るトンネル(巣穴)の中等で焼いた灰かぶり、 ぼた餅の様な道具土の跡で炎が直接当たらないところに丸い緋が出来た牡丹(ぼた)等、自然のおりなす炎の芸術は、見る人をして心を幽玄のかなたにさそうものがあります。

古き、よき備前焼について

 1)備前焼の歴史  土器は、古代の縄文式土器から弥生式土器(BC300〜)辺と何千年の年月を経て、古墳時代後期迄造られて来ました。地面に穴を掘り、その中に作品を並べ、野焼きしたもので(開放熱のため、700℃ 前後)全国に3000 ヶ所以上の窯跡があります。
 5世紀の中頃、須恵器の技術が朝鮮(陶すえの国)より伝わって来て、当時の焼物に変化が起こります。須恵器は、陶土を選びロクロの技術、築窯の技術(山の斜面に深い溝を掘り、底に階段をつけ、天井を築いて、その反射熱で湿度と1000℃前後の高温で焼く)、及び焼成技術(還元炎=窯の中の空気を少なくして酸素供給量を減らして焼く)で造られるようになりました。この「須恵器」が日本の焼物の始まりであります。須恵器は日本の各地で生産されましたが、備前地方(平安初期頃は、 岡山県邑久郡牛窓 ・寒風・須恵・土師などで造られていました。) も我が国の主要な生産地でありま し た。
 須恵器より、せっ器へと移行したのは、せっ器に適した陶土に恵まれた備前・丹波・信楽・常滑・瀬戸・越前地方の焼物であります。(これらを日本六古窯といいます。)
     備前地方では、10世紀の中頃 に備前市香登(かがと)の北の熊山(くまやま)に勢力の強い大寺があり、陶器師達は、庇護を求めて熊山のお寺の近くで焼物を造りました。熊山では、須恵器を更に高温(1100〜1250℃)で長時間かけて、じっくりと焼き締める方法で、造りました。 この焼き物をせっ器(stone-ware)といいます。 このせっ器が備前焼の始まりです。
 主に造られたのは、当時の生活に最も重要であった種壷・葉茶壷・水がめ・穀物用大かめ・すり鉢などです。 やがて、山上よりも生産・運搬に便利のよい伊部へと移って現在に至ります。鎌倉時代の終り頃迄、せっ器を焼いていた「六古窯」に新しい風が吹き込みます。備前を除く丹波・信楽・常滑・瀬戸・越前の5つの窯は、釉薬を用いた焼物「陶器」へと次第に変更していきました。又、江戸時代には朝鮮より伝わってきた「磁器」を主に生産するようにもなり、現在に至ります。
 備前焼は、千年来、一貫して「せっ器」を焼き続けてきました。つまりせっ器、備前焼とは、上質の陶土を選び、よく工夫した窯と経験豊かな焼成技術で、釉薬を使わず、素焼で長時間(約1週間〜2週間)じっくりと松の割木で焼き締めたものであります。

備前焼の歴史

 紀元前、幾千年と縄文土器の時代を経て、弥生式土器が古墳時代から(5世紀)奈良時代前期(7世紀前期)頃まで続きましたが、朝鮮(陶すえ)の国から新しい技術が伝わり土器に変化が起こりました。窯を築き高温(1000℃前後)で焼く技法で、仕上がった焼物は須恵器といい、これが日本の焼物の歴史の始まりであります。須恵器は日本各地で造られ、備前地方も主要な産地でした。
 備前地方では当時、仏教の霊山として名の高い熊山に、勢力の強い寺院があり、陶器師達がその庇護を求めて、山上の寺院近くで焼き物を造った時期があり、山では更に高温(1200℃前後)でしかも長時間焼き締める技法が用いられるようになりました。これは、中国より伝わってきた技法で、「せっ器」といいます。この「せっ器」こそ備前焼の元祖とも云えます。
 当時(平安中期10世紀頃)最も生活に密着した、種壺・葉茶壺・水がめ・穀物用大がめ・すり鉢などを主に造っていましたが、時代を経ながら次第に生産・運送に便利な伊部村(いんべ)へと移行し、鎌倉時代(11〜12世紀)から、今日に至ります。
                                   「せっ器」は、全ての保存性に優れ、その機能を高める為の工夫がなされ、実用性を併せた高度の技術が用いられています。又、せっ器の陶土に恵まれた「備前」を始め、「丹波」「信楽』「常滑」「越前」「瀬戸」等が代表的な生産地でしたので、以上の地域は「日本六古窯」と呼ばれる所以であります。
 鎌倉時代の後半から室町時代の初期(13世紀頃)には、釉薬を用いて、作品の変型・破損率を少なくし、同時に美しくもあり、又短期間で安価な仕上がり、といったまことに効率の良い技術が伝わってきました。釉薬を用いた焼物を「陶器」とよびます。六古窯のうち備前を除いた他の5地方では、全てこの釉薬へと移行していきました。そうした中で、高温で以って1〜3ヶ月の期間をかけて無釉で焼きしめられた備前焼こそ、かかる中で実に注目すべきものと信じるのであります。(現代は窯の大きさにより異なりますが1〜2週間)
 室町時代の中頃(14世紀)は、上流社会に於いて茶道・華道が盛んになり、豪華絢爛な美術品として陶器がもてはやされる時代が参りますが、一方備前焼は、窯元の統合など経営の合理化に懸命に励みました。
 さて、備前焼の実用性については特筆すべきものが多々あります。まず、水・穀物・葉茶・種子等の保存性は抜群であり、昔、先人達はこの点を熟知しており、城を守り又、船旅等に最重要物として取り扱われました。又、室町時代後半、茶道の「侘び」を説いた村田珠光は、日用雑器の備前焼の中から茶道具として見立て、以来は茶道・華道の世界で、特に大切に扱われることとなりました。又、水屋がめは汲み置きした水を一晩にしてその味をまろやかにし、花瓶に見立てられた器は花をより美しく引き立て、花の寿命を延ばします。又特有の雰囲気は、枯淡・素朴・雅味等、茶道・華道の心、即ち「侘び」「寂び」に通じる点、誠に重宝されております。かくて桃山時代は盛んにもてはやされる時代でありました。
 江戸時代から明治、そして今日までと、急変・変貌の社会の中で、時として置き去りにされそうな苦難の時代もありましたが、一千年の永きに亘って備前焼をこよなく愛する人々に育まれ先人達のたゆまざる努力と信念によって、せっ器の伝統が護り継がれて来たのであります。